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2006年8月26日 (土)

小学館「和楽」11月号

小学館「和楽」11月号(10月6日発売)Mag_cover_06111

「京の朝・昼・夜  “京都のひと”におそわる」

天ぷら八坂圓堂の夜のコース:天ぷら会席「八坂」が紹介されます。

その他にも京の朝ごはんや昼ごはんの美味しいお店様が掲載・紹介されます。Photo_21

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2006年8月12日 (土)

家庭画報10月号

02433_2006101_2  家庭画報10 月号(9月1日発売)

「京都巡りの合間に一軒家で・・・京都100膳」

“おきまり膳”の紹介で天ぷら八坂圓堂の名代の「天茶膳」が紹介されます。

その他にも一軒家の美味しい昼膳・夕膳のお店様がたくさん掲載される予定です。Photo_20

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2006年8月11日 (金)

徳間書店「食楽」10月号

徳間書店「食楽」10月号(9月29日発売)Now1_3

「温故知新 京都の一日」

朝、昼、昼下がり、夜、深夜…、それぞれの時間帯で楽しむ京都の名店が紹介されます。

京都祇園天ぷら圓堂は「天ぷら会席コース “八坂”」が紹介され、京都の秋の豊かな食材をネタに名代の京風天ぷらが紹介されます。

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2006年8月 8日 (火)

「天ぷら」おもしろ話~屋台から高級料理へ進化~

写真の錦絵は江戸時代末期の嘉永年間に描かれたもの。女が衣をまとった海老天をいかにも美味そうに食べようとしています。串のようなものが見えますが、当時屋台で売られていた天ぷらは揚げたてを串に刺し、天つゆにくぐらせて食べました。片手でつまめて早くて簡単。庶民に人気の食べ物だったといいます。Photo_15

天ぷらのような油で揚げる調理法は、もともと京都大阪から江戸に伝わったようですが、京阪で油料理が早くから行われていたのは、寺社などが多いことと関係が深いようです。

17世紀後半になると、寺社の灯明用に綿や菜種が大量に栽培され、油の加工技術が飛躍的に進化します。油の値段が下がり庶民も油料理が食べられるようになります。なかでも油が入手しやすい京都では、京野菜や豆腐、湯葉、コンニャクの揚げ物などの精進料理が食べられていました。

天ぷらは明治期になっても依然として庶民の味でしたが、屋台から徐々に店舗に変わっていくにつれ、高級な天ぷら店も出始めます。関東大震災後、関西方面から多くの料理人が東京へ移ったことで、衣を白く揚げ、魚とともに野菜などもネタとし、塩をつけて食べる関西風も普及していきました。天ぷらは進化しながら、日本料理を代表する食べ物になっていったのです。

※参照文献:京都新聞にっぽん食探見

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天ぷら「おもしろ話」~江戸時代は屋台で~

天ぷらは謎に包まれた食べ物です。今でこそ寿司とともに日本料理の代表として君臨していますが、そもそも「天ぷら」は日本料理なのでしょうか?

江戸時代、天ぷらはもっぱら辻売り。つまり屋台で売られていました。テンポラ、テンペロ・・・天ぷらの語源を調べるといくつかの説があります。いずれもスペイン語やポルトガル語などがなまったと言われるものですが、どれもはっきりとしたことは分かっていません。Photo_14

室町後期には南蛮料理のなかに「テンフラリ」という天ぷらの原型のような料理が現れます。鯛に小麦粉をまぶし豚の油で揚げたものに、雁、白鳥、雉、小鳥の肉のたたきあんかけだったと言います。「てんぷら」という呼び名は江戸時代の文献に初めて登場します。

天ぷらにまつわる興味深いエピソードに、徳川家康の死因説があります。家康は鯛の天ぷらにあたって死んだというものです。ことの真偽はともかく家康が食べたものは当時、京都大阪で「つけ揚げ」と呼ばれていた食べ物。このつけ揚げが江戸に伝わり、天ぷらとして急速に普及していきます。

江戸では海老、貝柱、穴子、コハダなど、魚介類を揚げたものを天ぷらと呼びました。京都大阪ではもっぱら「つけ揚げ」と呼ばれ、京阪で天ぷらといえば、さつま揚げのようなものを指していたようです。

外来文化の影響を強く受けながら、江戸庶民の間で人気を得た天ぷらは、さらに西と東の文化が重なり合って現在の姿に近づいていきました。

※参照文献:京都新聞にっぽん食探見

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